

釉薬・土 説明
天目 てんもく
信楽の白土に天目釉を施しています。
漆黒の表情と茶色く変化した部分のコントラストが美しい飯茶碗です。
粉引 こひき
信楽の白土に化粧土をかけて焼成しています。
粉引きの名前の通り粉が吹いたような白い表情が優しい飯茶碗です。
皮鯨 かわくじら
信楽の赤土に化粧土をかけて少し置きます。
乾いた後に鉄釉を巻いて焼成しています。
唐津の伝統技法皮鯨は、口元を鉄釉薬で縁取った器のことを言います。
刺身などで美味しく頂ける鯨の皮の部分に似ている為この名前がつきました。
灰釉 はいゆう
信楽の白土に天然の松灰をかけて高温で焼成します。
灰がもつ鉄分が溶け出し緑色に変化します。
底に溜まったビードロ状の結晶が美しい飯茶碗です。
黄陶彩 おうとうさい
信楽の白土を成型後、無釉で焼成。
その後、低火度釉を吹き付けて焼成しています。
こちらの飯茶碗は、土物本来の味わいをお愉しみ頂く為に粗土を用いて成型しております。
貫入と呼ばれる細かいヒビや小粒の石が混ざったところにできたヒビは、陶器が持つ景色になりますので、その風合いをお愉しみ下さい。
経年変化を愉しむ器として末永く御使用頂ければ幸いです。

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李荘窯 寺内信二
初代寺内信一は昭和5年より自家窯で作陶を始め、陶祖李三平の住居であった事から李荘工房の名で出発。
観音像、置物、帯留等が主流であったが、戦後一時期は輸出ミクロス・硝石等も手がける。
昭和33年11月より社名を有限会社李荘窯業所と改め、家庭用、業務用食器に転向し現在に至る。
四代当主「寺内信二」は武蔵野美術大学を卒業後李荘窯の後継者として家業を継ぎ陶技を研鑽を重ね古染付で平成古伊万里の基盤を作り、専門各誌に取上げられ望外の評価を受けるに至る。







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磁器産地 有田
1610年、朝鮮人陶工「李三平」によって日本で初めて磁器が生産された土地「佐賀県有田」。
約400年間産業として窯の火を守り続けていますが、その道のりは決して平坦ではありませんでした。
有田で磁器生産が始まったころ、日本国内では既に中国磁器が大量に輸入され流通していました。
中国磁器市場に本格的に参入した有田磁器は、品質、価格、ともに市場の求めるものとは異なっていたため1642年から販売不振が続き、1647年には窯場存亡の危機に直面しています。
そこで先人達は、当時鎖国政策下で困難であったにも関わらず、中国人技術者を招き、中国磁器生産技術を導入します。これまで朝鮮磁器生産技術と陶器生産技術しか持っていなかった有田は、中国磁器生産技術を取り入れることにより、品質が上がり、今まで不可能と考えられた形を創り出すことに成功し、次第に国内市場で受容れられるようになったのです。
1650年代後半から1660年代になると磁器市場に大きな変化が現れます。
ひとつは、オランダ東インド会社が、1658年に本国に送付した見本により中国磁器の代替品として有田磁器を海外市場へ供給することを決定したことです。
有田の磁器生産システムは各窯場毎に生地から上絵付までを生産するものから、分業システムへと変化していきます。中国磁器と同等の品質の製品を、市場の要求する価格と納期で供給するために生産条件を整えるという産業の基本的な在り方を、質的技術革新と量的技術革新により確立させることに成功しました。
また、海外向け製品に従来と異なる用途・器形の製品が製造されるようになりました。
開国後も有田焼は碍子、タイルなど原料コストが大きく影響する市場やファインセラミックス等、新原料や新技術を伴う新市場へ参入せず、食文化と一体となって歴史、伝統、文化を創りつつ、今日まで発展してきました。
約400年もの間、有田焼が発展してきた理由は極めて明確で、質、価格、量において充分な競争力を有し、様々に変化する需要に対応しながら、市場が要求するモノを提供し続けることが出来たからです。
今の時代にあったものづくりを追求し続ける産地が有田なのです。

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